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森友事件で話題に出たのが教育勅語


以前、籠池理事長が教育勅語について熱く語っている場面がテレビで流れていました。


彼は

「いざとなったとき、みんなのために行動できるような素晴らしい人間を作ってどこが悪い?(キリッ!)」

みたいなことを語っていたのです。


みんなのために、協調性を持って集団行動する・・・これは現在の学校教育でも目指されていることに違いはありません。



教育勅語は「みんなのために(死ねるか)」という含みを込めた極論ですので、戦後、国会でも否定されてきたのでしょうが、



「死ぬ」まで行かない程度の「みんなのために」という精神は今の日本の学校教育でも、十分行われていると思うんですね。


でも、この「みんなのために」っていう教育って一人一人の人間にとってはどうなんでしょう?


早期リタイアして自分の半生を振り返るようになった私が思うのは



「みんなのために」が広まりすぎた反動が現在の多くの問題につながっているような気がしてなりません。


それは学校で教え込まれた「みんなのために」の生き方を長年続けた結果、


「自分のために」生きられなくなってしまった感が自分自身にあるからなのです。


そもそも、学校で教え込まれる「みんなのために」ってどの程度の割合頑張ればいいのでしょう?


自分自身のため:みんなのため=1:1くらいでいいの?



いやいや、理想論的には限りなく他人のためになったほうがよさそうに聞こえませんか?


そして、真面目で成績のいい扱いやすい子供ほど、これを真に受けて実践してしまいます。



その結果・・・



自分自身の生き方が全くつまらなくなってくるのです。


そりゃそうですよね、自分のためではなく、まわりのために行動しなくてはならないのですから。



そんな人生って、一体、誰の人生なのでしょう?


私達凡人は偉人ではありませんので、人生のすべてを他人のために生きるなんてこと、できるわけないじゃないですか。



そして、まわりのために行動するほど、まわりから


「あの人なら嫌なことでも引き受けてくれる」みたいな甘えを呼び、

ますます辛くて嫌な仕事が回ってくる悪循環に陥ります。


誰だって、他人のために自分が嫌な思いを引き受けることはしたくありませんので、自分自身が心の内面で二重人格みたいに反発を抱えてしまいます。



結果、自身の心にある葛藤と、実際の仕事の葛藤に人は押しつぶされてしまうのです。


今、急速に増えているうつ病や、大人のひきこもりなど多くの社会の問題は、個人が自分の幸せを感じられなくなるところから発生しているのではないでしょうか。



もっと一人一人の個人が自由になり、自身の幸せを追及していいと許してもらえる社会があるべき日本の社会ではないかな。



そうすれば、誰にでも優しい、生きやすい未来が見えてくるのに・・・



と妄想してみた、肌寒い雨の午後でした。