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宇多田ヒカルの「花束を君に」を聴いている今日この頃。


以前にも、宇多田の声が澄んで、ステキ・・・と記事にしましたが曲の解釈で、いろいろ盛り上がってるようですね。



なかでも、この曲は亡くなった母、藤圭子への歌だという解釈が多いです。



そう言われれば確かに。


一番不思議だったのが「涙色の花束」だったのですが亡くなった母への最期の花束なら納得がいきます。



普段メイクしない人の最期の死化粧と最初のほうはとれますしね。



藤圭子さんは精神的に不安定な所があって、晩年自殺されました。



また、生前もかなり気分が不安定だったとかで、とにかく感情が激しい人だったみたいです。



でも、その分安定してるときの可愛さとか優しさは狂気の分を補って余りあるほどだったことでしょう。



そんな激しい感情の彼女と暮らす家族としてはどうなのでしょう?



藤圭子さんは離婚されていますが、最後まで面倒を見ていたのはやはり元夫と家族でした。



憎んで別れたのではないのでしょう。



一緒に平安な生活をするのが困難だったのです。


そんな母を見ながら成長した宇多田ヒカルさんはどれだけ苦労したのか、反面どれだけキュートな母の一面を見たのか?



両極端ですが、つらさも愛情もおなじくらい感じたのではないでしょうか。


そんな通常ではない状況から生まれた曲は
限りなく繊細で、悲しくて美しい。


苦労は美しい光になって世界に放たれるのです。



そう思うと、


狂気が天与の才を育む縁の不思議さ、実感しませんか?


大げさにいえば、藤圭子さんがごく普通の歌手で、ごく幸せな家庭であったとしたら、宇多田ヒカルは今のような曲を作ることはなかったかもしれないのです。



いや、きっと作らなかったでしょう。



思えば高村光太郎と智恵子も似たような感じのご夫婦ですよね。



狂気をはらみながら、ときに童のような笑顔を見せる智恵子を狂おしいほどに愛した光太郎。



常人には耐えられないほどのつらさの一方で、天界みたいな純粋な可愛い世界もあったはずなのです。


誰しも、狂気とか精神的な激情とは無縁でいたいと思うものです。



が、芸術的にはそれだけではより高みへ行くことはある意味無理なのです。


天才と○○は紙一重のことわざもあるように



ある種の狂気が浄化されて、最高の極みを表現することもある・・・


ほんとにこの世界は、無駄なものなど一つも無いのですね。



小市民的には、あまり狂気には関わりたくありませんが



狂気の存在価値は認めてあげたいな・・・

と思った、深遠気分の午後でした。