今週は始まったばかりというのに、卵を切らしてしまいましたので近くのスーパーに寄ってきました。
原油高の影響もあるのでしょうけど、最近の卵もすっかりお高くなったものです。
物価の優等生たる卵がこんな感じでグレてるんですから、小市民は生活が圧迫されるはずですよね(笑)。
こんな愚痴を心でつぶやきながら、レジに向かうと大きな声で泣きわめく子供の声がします。
スーパーではよくあること、しかし今日のお子はなかなか泣き止まないのでちらちら人の視線が流れていきます。
私もちょっとイラッとしつつ、レジにならんだのですけどなぜか?
この光景が頭に残っております。
そんなに激怒してたわけじゃないし、泣いてた子の顔なんて覚えてないのに。
どうして、この光景が心をかきみだすのか、
自分の心の中を見つめてみることにしました。
思うに、
私は延々と泣き止まないこの子供を実は「羨ましい」と思っていたのかもしれません。
私が幼い頃は、「泣かない子」って皆に感心されたそうです。
母が今でも、自慢げに言ってますもん。
赤ん坊の頃はもとより、物心ついた幼児の頃も、「泣き虫はイヤ!」っていう変なプライドがありまして、絶対人前では泣かない子供だったのです。
ですから、聞き分けなく泣く子供って基本的に苦手なのですが、延々と泣く声を聞いているとふと
「これだけ、周りに助けを求められたらどんなに楽だろう?」
って思ってる自分がいるのもまた真実なのです。
そして、気づくと自分の心の中には、ずっと泣き止まない小さな子供の自分がいるような気がしたのでした。
その子供は「ごめんなさい、お父さん・・・」って泣いているのです。
私の父はしばらく前に亡くなりました。
晩年は年寄ですから、聞き分けも無くなり、ワガママばかり言うし、逆切れするしで、子供としては結構大変です。
現実問題、何でもしてあげられるわけにはいきませんし、ついキツイことを言ってしまったり・・・なんてのは日常茶飯事でした。
介護する家族って、こんなものですよね。
でも、亡くなった後になって、いつまでも「もっとよくしてやればよかったのに・・・」という思いが消えないもの。
そういったことを思い出すとき、心の中に小さな女の子が泣き止まないのですよ。
子供の泣き声は聞いていると悲しくて切なくて、幼いころの秋の物悲しさを映し出す褪せたオレンジ色の思い出のよう。
もし、幼い頃あんなふうに思い切り泣けたのなら、今の私はもう少し素直で明るくていろんな人に助けを求めながら軽やかに歩いているのではないかな?
などと思ってしまうのです。
いつだって、子供は自分勝手なものであり、親はそんな子供をかわいいと思うものです。
もし今、子供に手を焼いてる親御さんがいましたら、
きっといつかはその子も心の中で「ごめんなさい」って泣くときがくるはずです。
そうやって、命と愛情は引き継がれていくのですから。