今月21日の参議院選挙で、一つ、印象に残った言葉があります。
山本太郎さんの「なぜ誰も声を上げないんだ?」という言葉です。
彼は、脱原発を掲げて見事、選挙に当選したのですが、
「どうして声を上げないんだ?
皆で声を上げなきゃどうしようもないとこまで、この国は来ているんだ!」
と演説します。
芸能界で脱原発を主張するのはスポンサーに逆らうことですから、タブーです。
これは仕事を失うことが恐くて声を上げるのをためらう山本さんの自分自身への言葉でもあったのですね。
この言葉を聞いた時、私は自分の師匠と仰ぐ老師の話を思い出したのです。
「日本は、東大紛争のとき、官僚がすっかりビビッてしまったんだよ。
日本で最高の学力を持つ学生が体制に反対する・・・
これを無くそうとして共通一次、今のセンター試験を導入したのじゃ。
この試験を勝ち抜くには、深く考える力は邪魔だ。
つまり、従順な学生しか上の学校には行けなくしたわけだ。
でも、30年経って、従順でもの言わない人物ばかりで、小粒になった。
もう日本は、上に逆らっても何かなしとげる若者はいなくなってしまったんだよ。」
という深い話を。
声を上げることは、怒りを表現することでもあります。
私たちは、いつのまにか声を上げられない、怒ることのできない人間に
なっているのではないでしょうか。
そして、それはすなわち生きる力の低下でもあるように思いませんか?
怒ることはあまりよいこととはされませんが、生き延びるためには
戦うこと=怒る力も、やっぱり必要だと思うのです。
センター試験も5年後をメドに廃止も含めて検討されることになりました。
上に逆らっても何かをなしとげる若者がいなくなって、国としての活力が乏しく
なってきたことがこの方針転換の底流にあるとしたら、つくづく物事は
極端なことはしてはいけないものなのかもしれません。