昭和乙女の思い出日記

昭和時代に乙女だった管理人のお気楽初めてブログです









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ガラスの仮面の文庫版最新刊が先月出ましたね。


ガラスの仮面は美内すずえ著の昭和の時代からず~っと続いて細々と連載?中の少女マンガです。


連載?っていうのは、途切れ途切れに続きがでるからで、何度も

「これっきりで未完か・・・」


と思われながら、忘れたころにポツンと最新刊が出るのを繰り返しているから。


時々、作者はこれを気まぐれライフワークにしてるのかいな?
とか思ってしまいます(笑)。


書くほうも書くほうですが、忘れた頃に出た漫画をついつい、
引き続いて読んでしまう読者のほうも読者ですよね。


このガラスの仮面について思うのは、才能っていうか、天才への憧れです


主役のマヤはごく平凡な、そして貧乏な少女。


その平凡な少女が、演劇に関してはセリフを一度聞いたら覚えてしまうとか、
特異な才能を持っているのです。


まぁ、一種の神がかり状態に近いかもしれません


もちろん、演劇に関しては並外れた努力もしているんですが、結局のところ、
天才なんですよね。


一方のライバル亜弓は女優のサラブレッドといっていいほどの恵まれた環境と
美貌の持ち主なんですが、実は超努力家で、マヤの生まれながらの才能に嫉妬しつつ挑戦します。


普通の何のとりえもない平凡な少女の神がかり的才能に、読者は憧れ続けるのです。


マヤに自分を重ねて、神がかり的な才能があったらいいなっていう願望は夢が
ありますからね。


まだまだ、結末もいつになるかわからないですが、人は努力を重要だとわかっているけど、天才に憧れるものなのでしょう。


努力がイヤだとか、楽して成功したいというわけじゃないけど、
才能があればなぁ・・・なんて思うのは努力に疲れるお年頃だから?


歳を重ねるごとに、

努力もいいけど才能がもともとあったほうがずっといいよね

っていう現実がわかるのも大人の醍醐味かもしれません。

 

 

 

親せきに頼まれて、来年のランドセルをリサーチしてみました。


ランドセルなんて、自分の時代は近くのかばん屋さんとか、イオンに行って
女の子なら赤、男の子なら黒って決まったもんでしたよね。


もちろん、素材で価格は違いましたけど、見た目はあんまり
変わらなかったよね。


さて、ネットでリサーチして衝撃だったのは、ずばり、
ランドセルのモデルのお子達がとっても美形なこと!


すいません、ランドセル本体よりべつの方向に目線がいってしまいました(笑)。


特にキャサリン・コテージのランドセル系はまるで絵から抜け出たような、
そのまま額に入れて飾ってしまいたいほどの美形ぶりですよん。


女の子のランキング1位はロマンチックランドセルの女の子。

ハーフの子でしょうか?眠れる森の姫みたいで、最高にかわいいです。


男の子のランキングはイングリッシュ・ロイヤルネイビーの男の子。


すっきりと上品な王子様系で、嵐のメンバーよりもステキだと個人的には思いますねん。(嵐ファンの皆様、すみません)


こんな息子がいたら母は嬉しいぞ!って、親目線なのが残念ですけど、
久々にハートを打ち抜かれた気分は最高です。


こんな美形子供達で不思議の国のアリスとか、シンデレラとか映画に
してくれないかなあ・・・と思う次第です。


子供モデルにメロメロになったあと、気づくとこのキャサリン・コテージの
ランドセルって、売り切れが多いんですね。


やはり!と思ってしまいました。


ランドセル検索して、王子様やお姫様見たら、親だってフラフラ購入ボタン
押しちゃいますよね。


昨今のイメージ戦略の完勝ではないでしょうか。


ということで、親せきに頼まれた案件は「売り切れでしたねん」っていう
残念な報告で終わりそうです。


でも、自分の知らないところで着々と時代が変化しているって実感した秋の夜でした。

 

 

子供の頃、「ドリトル先生シリーズ」が好きで熟読した記憶があります。


自分も!って共感される人も多いのではないでしょうか。


ドリトル先生は動物語が話せる獣医師という設定で、ペットのおうむや家政婦のあひるはじめいろいろな動物達と暮らしています。


旅をしても、そこらじゅうにいる小鳥やイルカなど現地の動物達から情報を聞き出せるので、まるで超能力者のように!スーパーな獣医おじさんなのです。


人以外に動物と話ができたら、そこから得る情報量はすごいものになるでしょう。


何かの事件があって、人の目撃者がいなくても、電線からスズメが見ていたり、野良猫が顔を洗いながら寝そべっていたり・・・動物達からいくらでも目撃情報が得られますもんね。


そんなドリトル先生はとっても博学です。


獣医の専門知識に語学、動物語、そして博物学の知識が豊富なんです。


そんなオールマイティな博物学者に、子供時代の私は憧れていたのですね。


だって、ドリトル先生と共に旅すると、行く先々で豊富な知識・見識を披露してくれるんですから、学ぶことが楽しいもん!
弟子になって世界を旅したいって思うのも当然でしょう。


さて、このオールマイティな博物学ですが、今や学問が細分化され、幅広くカバーする博物学はマイナーな感じです。


残念なことだと思っていたら、イギリスのロイド氏が科学・芸術・政治・経済と
あらゆる知識をつなげた著書「137億年の物語」がベストセラーになっているという記事を発見しました。 (2013.9.26朝日新聞)


彼は娘が登校拒否になったのをきっかけに娘と在宅教育を始めました。


そして、誰もがもつ好奇心の赴くままに学習する方法を編み出したのです。


例を挙げると娘がペンギンに興味を示したら、

最初は生態→極域の気候→水から氷への変化、そしてさらに

ペンギンの群れを使って算数→氷山にぶつかって沈んだタイタニック号の歴史

へと発展させていくのです。

知識は点から線になり、面に広がるように、親子は夢中になって5年間学び続けました。


「学校のカリキュラムはバラバラに割れてしまったガラスの
ようなもの。
つなぎあわせた一枚のガラスであれば見えるものがあるんです」

というロイド氏の言葉に、これぞ博物学の復活!って思った次第です。


学校で学ぶのは効率的に学習内容を頭に詰め込むにはベストかもしれません。


でも、それが行き過ぎて学ぶことの本来の楽しさが失われているとしたら、やはり本末転倒でしかありません。

もしかすると、博物学の時代こそが、次世代の学習法になるかも・・・そんな可能性を感じた一件でした。

 

 

 

三鷹の女子高生ストーカー殺人について、TVの報道が盛んです。


ちょうどストーカー規制法が新たになってすぐの事件でしたから、事件が起こる前になんとか警察ができなかったものか?というコメンテーターの意見が多いようですね。


当日の朝、被害者が警察に相談に行っていたので、余計に残念に思われるのでしょう。


なんで、もっと警察は被害者の安全確保をしなかったんだ?とか、

当日は彼女の身辺保護をしりべきだった・・・などいろいろ言われているようです。


でも、ちょっと待って・・・って思うんですよね。


警察って、ストーカー被害を訴えるすべての人に一人づつ、身辺警護する
人的余裕ってあるのでしょうか?


ちなみに身辺警護をする警備会社の価格表をみてみると
(SPIという会社の例で)


ローリスクで1時間3500円
ミドルリスクで 5000円(8時間以上が基本)
ハイリスクで 8000円(長期契約で割引あり)

エスコートサービス5000円


今回の場合は自宅内に加害者がいましたから、自宅へ送り届ける
エスコートサービスじゃあ足りないです。


ハイリスクとして1時間8000円×8時間=64000円(1日)!


警察官のお給料って、日給6万円なんてありませんよね。


そして、すべてのストーカー被害を訴える人に警察官がつくとしたら、
税金はどれぐらい高くなるか、対費用効果だって考えないとなりません。


どれだけの税負担で被害者のボディガードを雇うのか?ってことの国民の意志を決定しなきゃならないのです。

たとえば、消費税50%で可能だという試算なら、それでみんな納得するか?ということなんです。


命は地球の重さより重い・・・とはかの有名な方の言葉ですが、
現実に生きる私達にとって、建前・正論だけじゃ生きていけないんですよね。


コメンテーター・識者というからには、単純に警察の責任云々じゃなくて、もっと大きな国民自身の選択はどうするか?まで踏み込んで欲しいと思った一件でした。

小学生の頃、世界児童文学全集っていう分厚い本があって、好きで読んでいたんですが、その中に「きつね物語」っていうのがありました。


きつねのルナールが天敵の狼イザングランや他の動物達を騙して痛快に生きるお話です。

きつね物語は12世紀フランスの古いお話


読んでいると、かなりずる賢いので、ルナールに自己投影して感動する・・・っていうわけにはいかないんですけどね


ちょっとやりすぎじゃない?みたいな感じがしてしまうもんですから。



調べてみるとこのきつね物語は歴史が古くて、12世紀後半にフランスで
生まれた物語群なのです。



物語は擬人化されて描かれた悪賢いきつねルナールを中心として、騙し話やライオン王の前で行われる裁判などが風刺的に描かれている・・・とあります。



弱いキツネが強い狼やライオンに知恵だけでやりこめる姿は、小市民が時の権力者に対して鬱憤を晴らす意味合いの物語であったのかもしれませんね。

ルナールの最期が印象に残っています


さて、このきつね物語のどこが思い出なんだ?といいますと


ルナールの最期の場面がいやに思い浮かぶのです。



ルナールは狼のイザングランをことあるごとに持ち前のずる賢さでやっつけて
いたのですが、最後に怒り心頭に達したイザングランに息の根を止められそうになってしまいます。



そのとき、ルナールは


「俺には女房と、まだ幼い子供が腹を空かせて待っているんだ。

死ぬわけにはいかない、助けてくれ」

って命乞いをします。

ルナールも家に帰ればおとうさん


 


確かにルナールはずる賢く立ち回っていましたが、それもすべては家族のため。


 

だって、ルナールがせしめた獲物を持ち帰ると

「お父さん、すごいご馳走だね!」って、子供や奥さんに嬉しそうに取り巻きます。

子供たちが美味しそうに獲物を食べるのを満足げに見守るルナール。

なんだか、どこにでもある普通の家庭の夕食シーンのようですよね。


そんな場面と最後の命乞いが重なって、
このシーンは妙に身につまされて悲しくなってしまうんです。

心臓発作で死んだ小心者のルナール


結局、イザングランは最後の瞬間に思いとどまってぐったりしたルナールを
離して帰っていきます。



「そうだよな、あいつにも家族がいる。殺さなくてよかった(ニコ)」



ってお人よしのイザングランはちょっといいことをした気分なんですが、


ルナールはぐったりしたまま。

気の弱いルナールは心臓発作で死んでいた・・・というのが結末です。

生きるということは哀しいことでもある


ここで話は終わってしまうのですが、死んだルナールに家族は取りすがって
なく事でしょう。

いろんな悪事をしたとしても、

生きるっていうことはどこか透明な哀しさがある・・・

その人の立場になってみると、100%悪とか善ということはないのだ、と実感できる物語なのです。

 

 

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